思考行脚

 今、散歩しながら考えたのだが、なんとなく分かった気がする。自分のやりたいこと。というのも、散歩に出かける前はやる気が出ず、何もしたくないような気分だったのに、散歩しながら考え事をしていたら、元気になったからだ。つまり、散歩しながら考え事をしていたいらしい。いっそ、日本一周でもしてやろうか。季節もいいし。何を考えながら歩いているのかというと、自分でもよくわからないのだが、とにかく考えていることだけは確かだ。もっと歩けば、何を考えているかくらいは分かるようになるかもしれない。とりあえず、今からまた街まで歩いて戻ってくることにする。帰ったらまた続きを書くかもしれない。

ネイティブに"perfect"と言われた私の発音

 1ヶ月ほど前に知り合った外国人(たぶんアメリカ人)に自分の英語を褒められたのだが、どうも英語力というより発音がいいらしい。というか、完璧と言われた。発音に関しては密かに自信を持っていたので、嬉しかった。実は、ドイツ文学を専攻していた大学時代にもネイティブの教授にドイツ語の発音を褒められたことがある。そのときは、「とてもきれいな」発音だと言われた。だから、英語に限らず、発音には自信がある。知らない言葉でも、少し練習すれば短期間でネイティブのように発音できるようになる自信さえある。

 

 ネイティブをして「完璧」と言わしめた私の英語の発音。どのようにして身につけたのかと言えば、それはもうひたすら練習して口と耳を鍛えたと言う他はない。発音は筋肉の活動、すなわち運動だからだ。何かコツを聞けばすぐにできるようになるというものではない。ただ、私が証明したように、非ネイティブでも十分に練習すれば「完璧」と言われるくらいにはなれる。そういえば、件の外国人に、「本当に日本人ですか?」とまで言われた。まあ、それくらいにはなれる。

 

 こういう話を聞くと、「もともとセンスがあったのではないか?」とか、「海外で暮らしていたことがあるのではないか?」などという疑問が生じるかもしれないが、私には海外在住経験はないし、そもそも私は発音が苦手だったのである。発音が苦手で、それが英語の勉強の足枷になっていると思ったからこそ、発音を練習し始めたのだ。

 

 歴史は中学1年生まで遡る。私は英語に苦手意識があった。小学生の頃に公文式をやっていたので、文法には多少のアドバンテージがあったが、英語があまり好きではなかった。それは、授業中に英語を読まされるのが嫌だったからだ。そう、みんなと同じで、英語を発音するのが恥ずかしかったのだ。

 

 英語に対する苦手意識の原因が発音にあると認識したその日から、私は密かに特訓を始めた。といっても、人の前でやるのは恥ずかしいので、夜、布団を頭からかぶって、その中で隠れて練習したのを今でも覚えている。

 

 練習といっても、闇雲にやったのではダメだから、発音の仕方の説明(辞書に載っていた)を参考にしつつ、リスニング用の音源を聴いて、真似することから始めた。すると、いくつかコツのようなものが掴めてきた。"milk"は「ミルク」というよりも、「ミゥク」に近いとか、"father"や"mother"の語尾の「アー」の部分は、ウの口にするとそれっぽくなるとか。

 

 だが、これもみなさん身に覚えがあることだろうが、英語を英語らしく発音しようとすると、バカにされることがある。「なんだあいつかっこつけちゃって」みたいな目線。「意識高い系」という言葉もそうだが、向上しようとしている人をバカにするような輩は最低だと思う。幸い、私は当時、いわゆる「空気の読めない」人間だったので、特に気にすることなく練習の成果を授業で発揮できた。とはいえ、最初のうちは、まだまだ不完全であったため、アメリカかぶれの帰国子女にみんなの前で「発音が変」などと言われたこともあった。それは少なからず不快な思い出なのだが、その時点でもそいつの発音は「大したことない」ことが分かっていたので、意気消沈することなく、その後も訓練を続けた。もし今そいつが私の発音を聞いたら、悔しがるかもしれない。へっ、ざまあみろ。

 

 昔話はこれくらいにしておこう。今、英語の発音がうまくできなくて困っている人が、英語の発音をネイティブ・レベルまで持っていくには、どうしたらよいのか。あるいは、少しでもマシにするためにはどのような練習をしたらよいのだろうか。

 

 まず断っておきたいのは、言語を学ぶ上で発音は「非常に重要」だということである。というか、私個人としては、いくらペラペラ喋れても発音がちゃんとしていなかったら、全然ダメだと思う。控えめに言っても、かっこ悪い。少なくとも、「マスターしている」とは言えない。つまり、(私としては当たり前のことだが)言語の学習に「発音」は含まれている。この点を明確にしておきたい。発音ができていなければ、その言語ができていることにはならない。(実際、日本語がペラペラに喋れていてもイントネーションがめちゃくちゃだったら、せいぜい「日本語がお上手ですね」止まりであって、「ひょっとして日本人ですか?」とはならないだろう。)

 

 だから、まずは「発音は大事」と認識すること。通じればいいとか伝わればいいとか、そういうことでもないので、注意してほしい。発音が大事なのは当たり前なので理由の説明は難しいが、あえて説明するとすれば、「発音の仕方自体にその言語の文化が多分に含まれている」ということだ。つまり、"world"を「ワールド」と発音してしまうそのノリと、それをネイティブのように"world"と発音するノリとでは、全然違うということだ。英語の語順に彼らの思考回路が反映されているとするなら、それと同程度に、発音に彼らの「気持ち」が反映されている。そう思ってほしい。

 

 発音は大事だと認識できたなら、あとはとにかく練習だ。『英語耳』という本がおすすめである。必要な情報は全部載っているから、この本を使いながらまず単語の発音を練習する。単語の発音がある程度できるようになってきたら、適当なリスニング音源を聴きながら文章の読みもできるようにする。(本来なら英会話の中で培うべきものなのかもしれないが、全員が英会話の機会を持てるわけではないので、一人でできる訓練法を提示している。文章ばかり読んでいると自然な会話のリズムは学べないが、発音の基本は学べる。)

 

 まとめ

・発音は大事

・発音は訓練で習得する

・訓練は、耳と口の両方を使う

・発音がうまくなると、ネイティブの評価が上がる

生産性が見込めなくなったらすかさず寝る

今日はとても不調だった。ただ、わけのわからない倦怠感以外には特に問題はなさそうだったので、2回ほど昼寝をしたら、良くなった。もしあのまま起きていたら思考もやられていただろう。生産性が見込めなくなったらすかさず寝るという戦略は自分にとってかなり重要だ。

 

疲れたら休む(寝る)

受験勉強は片手間に

1日のうちにできることは限られている

音楽はたまにやった方が頭が冴える

声のリハビリは気長に続ける

お金につながることは常にやっていた方がよい

未だどん底から這い上がる途中であると認識しておく

どん底から這い上がった経験を世の中の役に立てるという志をもつ

...

 

人生戦略というか、どのような計画の中で今自分がどういうところに位置しているのかということが把握できなくなるとつらくなるので、上記は常に忘れないようにしたい。(追記はしないけれども、まだまだあるはず)

久々に感情

宣言通り、同日更新をしてみる。

 

いま、けっこう気合いが入っている。というか、ちょっと怒っているような感じだ。なんだろう、この固さがあったとしても、ふだんは感情が伴っていないから、怒りにはならないのだが、なぜか今日は感情的だ。久しぶりだからというのもあるが、怒っているにも関わらず、こういう気分も意外と悪くないと思える。

 

きっかけはあった。ちょっとしたことがあって、声がうまく出ないという現状に対して悔しさを覚えたのだ。「ふざけんな」「なめんなよ」こういう気持ちが生じたので、今、全体として怒りのテンションでいる。

 

ただ、多少心地よいからといって、これを保持しようとか、明日また再現しようなどとは考えない方がいいだろう。それはあまりに操作的というか、不自然だ。感情は娯楽と思って味わえ(あるいは利用せよ)という言葉があるが、そういう風に考えておこう。電車に乗って景色を楽しむように、この感情を味わおう。

 

とにかく、時間が必要だ。これは間違いない。それだけのダメージを負っているのだ。声も、心も。元気になった自分を想像しながら、1日1日を積み重ねていこう。

 

極端から極端へ移る運動に歯止めをかける無為自然の意識

おはよう世界。特にテーマはないけど、ブログでも書いて考えをまとめようという朝。

 

ピアノの発表会(なんとか切り抜けた!)以来、生き方のコツを掴んだような気がしていたのだが、最近またよく分からなくなってきている。「一生懸命」もっというと「必死」で生きていれば余計なことを考えずに「行動」できるというのがコツだったような気がするけれども、発表会のような大掛かりな装置がなければそういう気になれないという問題が発生。常に本気でなんて、いられるわけがなかった。

 

そもそも、私は「行動がすべて」だとは思っていない。行動の側からすれば「余計な」考え事が、実はとてつもなく重要なことのような気もしているので、やはり、時には考え事に耽りたくもなってしまう。

 

私のする考え事というのは、昔はそうでもなかったが、今は、何らかの問題意識があって、それについて考えるという感じだ。ただ、一体何が問題なのか、そこのところがよくわからない。これが一番の問題。何か、確実に問題であるようなことがあるはずなのだが、それが何なのかが分からないのだ。一般に言われているように、「死」は問題であるような気がする。いつか死ぬということ。そこへ向かうこの生の意味。

 

一方で、いつか死ぬということは何の問題でもないようにも思える。要するに、現状に満足していないことからくる不安や焦りといったものが「問題だ」という意識の根幹にあるものなのかもしれない。たしかに、今ここにあるべきものがない。欲しいものが手に入っていない。それは間違いない。ただ、これも一方で、手持ちの駒に特に不足はないようにも思える。だとすればこの不安は何だろうか。そう考えると、また「死」という話に戻る。

 

結局、問題の本質が掴めない。時に精神が勢いづき、問題を一方向から捉えることに成功したときに、それに対する解決案が一気に湧き上がることもある。だが、その勢いも長続きはせず、やがて収束する。結局、問題は解決されないまま残る。

 

ヒントになるのはクリシュナムルティくらいである。結局何らかの信念に拘らずには生きていけないという弱き人間の構図に当てはまっているように思えるからだ。

 

最近は、「自然体」ということがキーワードのような気がしている。音楽の演奏が生き方と類比できるのは以前から気づいていたが、昨日、ピアノの脱力奏法というのを試してみて、「自然に生きる」という当たり前の真理のようなものを予感した。

 

だが、「自然」の意味は実に多様だ。合理性ということも入ってくるし、執着はないにしても無欲というわけではないし、解釈が難しい。人間のダメなところも合わせて考えればすでに自然に生きているのだという言い方さえできる。しかし、そんな言い方をしたところで、せいぜい焦点がボヤけて問題意識が薄れるくらいなもので、考えれば考えるほど問題はあるのだ。

 

仮に、ピアノの演奏を極めることに専念できる環境にあるとすればどうか? あるいは、発声障害が完治し、歌を極めることに専念できる環境にあるとすればどうか? これはかなり生きやすくなることが想像に難くない。そう考えると、何か「軸」が必要ということなのかもしれない。

 

感覚的には、二元的世界観に嵌っているせいで生じるアップダウンに翻弄されている、という印象である。要するに、あっちへ行ったりこっちへ行ったりを繰り返していて、その循環自体に疑問を持っているような感じだ。もうそういうことに辟易していると言ってもいい。つまり、そろそろ「答え」が欲しいわけだ。

 

右往左往することに疲れているということは、右往左往する自分を見つめる高次の自我が存在しているということでもある。それこそ、発表会本番の余裕のない自分は、ステージ上で難しい曲に無我夢中で食らいついていくことしかできなかった。そういうときはある意味幸せである。問題は、日常の生活で精神に余裕が生じているときに、その余裕をどう使うかということ。

 

生き方がよく分からないというのは、裏を返せば、「もう十分わかったから終わりにしたい」ということでもあるように思える。一番楽なのは、今日が最期の日ですと宣告を受けることだ。諦めて余生を平穏に過ごしたいような心境なのに、ここで諦めるほど可能性は潰えてしまってはいないというような、そんな微妙な状況なのである。

 

つれづれなるままに思うことを書き連ねてきたが、少しだけ頭が整理され、心が落ち着いたような気がする。いまこの心境でここ数日の生活を思い返してみると、やはり落ち着きがなかったような気がする。自然体というのはやはり鍵となる言葉だと思う。ちょっと落ち着いて、好きなことでもやってみようかな。ブログもまた今日明日中に更新するかもしれない。

ふだんから本気で

さて、今日はピアノの発表会本番である。

昨日は10時前には寝て、今朝5時過ぎに起きた。

まだ音出しはできないので、YouTubeで月光第3の音源を繰り返し聞いている。

本番なので本気度が違うわけだが、裏を返せば、2週間前からこれくらいの本気度で臨こともできたはずだとも言える。

まあ、たかが発表会なので、そこまで本気になれなかったというだけかもしれないが、もし毎日をこれくらいの密度で臨めたら(週1くらいでゆるむ日は作るにしても)、全然違う人生になるだろうなと直感。

たぶん、声もあっという間に治ってしまうだろう。

やはり、病は気から。

ふだん生きる気力に乏しいことがすべての病禍の原因であることがよくわかった気がする。

 

いま、音源は↓これ↓を選んで聞いているのだが、

 


Beethoven - Moonlight Sonata 3rd Movement | Piano & Orchestra

 

これを選んだ理由は、テンポが(比較的)遅めで安定しているからだ。(本番はもちろんオーケストラと共演するわけではない笑)

ふだん自分はテンポがいささか不安定なので、これを聞いて矯正しようというわけだ。

どう考えても当日にやることではないわけだが…(笑)

今日の今日になるまで本気でやっているとは言えなかったことがよくわかる。

 

私は中学のとき陸上部で全国を狙っていたのだが、今朝は、その本番のときのような気合いの入り方。

 


ALI PROJECT - 神風 (kamikaze)

 

こういうテンション。いざ!みたいな。

なんか戦のイメージなんだよね。完全にそうだとは言わないまでも。

陸上部は勝負だからそれで当然なんだけど、ピアノの場合はどうなんだろうか。

まあ、自分にとっての本番はやはり戦いだから、これでいいんだろうな、たぶん。

 

今日乗り切れたら、医学部受験なんて楽勝という気がするわ。。。解答途中で止まったっていいんだもんなぁ。

 

ふだんから気合い入れて生活に臨むべき、という話でした。

人生は時間との関係

 久々に文章を書くので、まとまりのないメモ書きのようなものになってしまった。

 

 私には障害がある。ひとつは精神障害、ひとつは発声障害である。障害が二つあると言えば複雑そうだが、実際には心身のアンバランスから来るひとつの障害だと思われる。

 

 見てみると前回の記事は希望に満ち溢れていたようだが、ここのところ、睡眠時間が増え(10時間以上)、やる気がいまいち出ない日が続いている。元気に毎日を過ごせないのは、障害のせいだ。精神障害の方は(本当に!)ずいぶんと改善されており、今は体力不足という形でしか生活に影響はないのだが、発声障害の方は(これも改善はしているのだが)依然として私の人生の大部分を支配している。全く声を出すことができない時期もあったので、日常の会話ができるようになった今、障害ということに固執しなくてもいいのではないか、とよく言われるのだが、本人にしかわからない「困難」がまだあるのだ。もちろん歌い手(ボカロやニコ動とは関係なく、単にSingerという意味で)になりたいという夢があるから声に執着してしまうというところもあるのだが、日常生活の快適さという面においても、今のままでは不都合が多い。単純に、リハビリを続けていないとやがてまた声が詰まるようになるという不安がある。これまで、何度もそうなってきたからだ。リハビリのやり方はともかく、何らかのリハビリを続けていないと、また声が出にくくなってしまうのは経験上ほぼ間違いないのである。

 

 一生リハビリでもいいと思っている。だが、一生このままでは嫌だという気持ちも大きい。リハビリを続けることに苦はないが、改善が見られないのは苦痛である。そんなわけで、先ほどは少しネガティブな気持ちになっていた。ここ10日間ほどのリハビリで発声はずいぶん改善・進歩したのだが、同時に疲労も溜まって、朝からなんだかやり切れない気持ちになっていた。

 

 こういうとき、「なぜ」ネガティブなのかを考え出すと、ドツボにハマるものだ。そこで、単純に、意志の力で、自己を奮い立たせてみた。それでブログに向かっている。最近、身体に意識が偏りすぎていたので、ここらで言葉の力を回復させようというわけだ。

 

 不思議なもので、このように自分の言葉を紡いでいくと、自分の中の何かが整って、発声が整ったりするのである。人体を「言葉を話す装置」と考えれば合点がいくのだが、本当にそうなのかもしれない。ふだんの声を出すリハビリがボトム・アップだとすれば、ブログを書く(声を出さない)リハビリはトップ・ダウンだ。ちょうど、前回の記事で書いた「未来を創り出す」ことがトップ・ダウンで、前々回の記事で書いた「生活アルゴリズム」がボトム・アップにあたるように。

 

 時間の流れには2つの方向があると言う。過去から未来、そして未来から過去。この2つの方向性のバランスが狂うと、生き方を見失う。人生とは、詰まるところ時間との関係だからだ。

 

 ミクロ・マクロという言葉でも言い換えられると思う。生活を細分化して個々の要素に対する戦略を立てていくような意識がミクロで、未来における「大いなる目的」を精神において設置していくような意識がマクロだ。意外と、あらゆる精神障害の発端はこの時間との関わり方を間違えることからくるものなのかもしれない。もっと言うと、中道というのは、結局、ミクロやマクロの極端に振れることなく、バランスをとれということなのかもしれない。生き方が時間との関係性である限り、逆に、それ以外の答えがあるとも思えない。

 

 生き方は少しずつ、改善してきている。当面の目標は、元気になること、そして来年の医学部受験で合格することだ。「地道さ」というのも、障害を克服する上ではひとつのキーワードになる。障害は障害だ。簡単に克服できるようなものではない。時間が必要なのだ。そのことを忘れて、功を焦ると、かえって後退することになりかねない。肝に銘じておきたいところ。