極端から極端へ移る運動に歯止めをかける無為自然の意識

おはよう世界。特にテーマはないけど、ブログでも書いて考えをまとめようという朝。

 

ピアノの発表会(なんとか切り抜けた!)以来、生き方のコツを掴んだような気がしていたのだが、最近またよく分からなくなってきている。「一生懸命」もっというと「必死」で生きていれば余計なことを考えずに「行動」できるというのがコツだったような気がするけれども、発表会のような大掛かりな装置がなければそういう気になれないという問題が発生。常に本気でなんて、いられるわけがなかった。

 

そもそも、私は「行動がすべて」だとは思っていない。行動の側からすれば「余計な」考え事が、実はとてつもなく重要なことのような気もしているので、やはり、時には考え事に耽りたくもなってしまう。

 

私のする考え事というのは、昔はそうでもなかったが、今は、何らかの問題意識があって、それについて考えるという感じだ。ただ、一体何が問題なのか、そこのところがよくわからない。これが一番の問題。何か、確実に問題であるようなことがあるはずなのだが、それが何なのかが分からないのだ。一般に言われているように、「死」は問題であるような気がする。いつか死ぬということ。そこへ向かうこの生の意味。

 

一方で、いつか死ぬということは何の問題でもないようにも思える。要するに、現状に満足していないことからくる不安や焦りといったものが「問題だ」という意識の根幹にあるものなのかもしれない。たしかに、今ここにあるべきものがない。欲しいものが手に入っていない。それは間違いない。ただ、これも一方で、手持ちの駒に特に不足はないようにも思える。だとすればこの不安は何だろうか。そう考えると、また「死」という話に戻る。

 

結局、問題の本質が掴めない。時に精神が勢いづき、問題を一方向から捉えることに成功したときに、それに対する解決案が一気に湧き上がることもある。だが、その勢いも長続きはせず、やがて収束する。結局、問題は解決されないまま残る。

 

ヒントになるのはクリシュナムルティくらいである。結局何らかの信念に拘らずには生きていけないという弱き人間の構図に当てはまっているように思えるからだ。

 

最近は、「自然体」ということがキーワードのような気がしている。音楽の演奏が生き方と類比できるのは以前から気づいていたが、昨日、ピアノの脱力奏法というのを試してみて、「自然に生きる」という当たり前の真理のようなものを予感した。

 

だが、「自然」の意味は実に多様だ。合理性ということも入ってくるし、執着はないにしても無欲というわけではないし、解釈が難しい。人間のダメなところも合わせて考えればすでに自然に生きているのだという言い方さえできる。しかし、そんな言い方をしたところで、せいぜい焦点がボヤけて問題意識が薄れるくらいなもので、考えれば考えるほど問題はあるのだ。

 

仮に、ピアノの演奏を極めることに専念できる環境にあるとすればどうか? あるいは、発声障害が完治し、歌を極めることに専念できる環境にあるとすればどうか? これはかなり生きやすくなることが想像に難くない。そう考えると、何か「軸」が必要ということなのかもしれない。

 

感覚的には、二元的世界観に嵌っているせいで生じるアップダウンに翻弄されている、という印象である。要するに、あっちへ行ったりこっちへ行ったりを繰り返していて、その循環自体に疑問を持っているような感じだ。もうそういうことに辟易していると言ってもいい。つまり、そろそろ「答え」が欲しいわけだ。

 

右往左往することに疲れているということは、右往左往する自分を見つめる高次の自我が存在しているということでもある。それこそ、発表会本番の余裕のない自分は、ステージ上で難しい曲に無我夢中で食らいついていくことしかできなかった。そういうときはある意味幸せである。問題は、日常の生活で精神に余裕が生じているときに、その余裕をどう使うかということ。

 

生き方がよく分からないというのは、裏を返せば、「もう十分わかったから終わりにしたい」ということでもあるように思える。一番楽なのは、今日が最期の日ですと宣告を受けることだ。諦めて余生を平穏に過ごしたいような心境なのに、ここで諦めるほど可能性は潰えてしまってはいないというような、そんな微妙な状況なのである。

 

つれづれなるままに思うことを書き連ねてきたが、少しだけ頭が整理され、心が落ち着いたような気がする。いまこの心境でここ数日の生活を思い返してみると、やはり落ち着きがなかったような気がする。自然体というのはやはり鍵となる言葉だと思う。ちょっと落ち着いて、好きなことでもやってみようかな。ブログもまた今日明日中に更新するかもしれない。