起こるべくして起こること

人は、朝、自然と目が覚める。

それは、明日も生きようとする意志がある限り、そうなる。

 

夢を叶える人は、目標を達成するためにしなければならないことを、朝になれば自然と目が覚めるように自然と行ってしまう。

これが「夢が叶う」仕組みであり、それ以外の方法はない。

夢が叶う人は、自分が叶えたいその未来の光景しか見えていない。

つまり目的地destinationがはっきり決まっていて、あたかも運命に導かれているかのようにdestinedそこへ辿りつくのである。

 

私が東大理三に受かったときが、まさにそうだった。

私の時間は完全に、未来から現在へ向かって流れていた。

東大理三合格へ向けて階段を一歩ずつ登っていったのではなく、東大理三合格という未来そのものに引き寄せられるようにして上昇していったのである。

 

教師をやっていて、気づくことがある。

第一志望に受かる生徒は、現状に不満をもち、そのことで悩むことはあっても、その一方で、明確な未来のビジョンを持っている。

 

最近、Bob Proctorの"You Were Born Rich"を読んでいる。

読み始めるタイミングがよかったのか、人生に関してずっと抱いていた疑念の雲が晴れたような気がしている。

どうしてあの頃はうまくいっていたのか、どうして今はうまくいかないのか。

生き方に関して、ここでは語りつくせないほど散々悩んだものだが、この本で学んだことを参考に、昨日、母親と「未来会議」なるものをした結果、その効果を実感すると同時に、人間の生の構造自体が一条の光に照らされたような思いである。

 

たとえば、あなたは今、現状に不満を持っているとする。

その不満は具体的かもしれないし、漠然とした不安のようなものかもしれない。

それを解決しようと思ったら、ふつう、不満の原因を紙に書き出すなどしてから、具体的な解決策を考えようとするだろう。

そのやり方は全然間違ってはいない。

だが、もしそういうプロセスを経たとしても、なぜか、その解決策を実行できない自分がいるのではないだろうか。

なんだかわからないが、なぜか、一歩踏み出せない自分。

明らかに必要なステップであるはずなのに、何を躊躇っているのか、やらなきゃやらなきゃと思いつつ、何もできずに毎日が虚しく過ぎ去っていく。

私も、ずっとそうだった。

受験生時代には、自然と机に向かっていたはずだった。

目標達成のために必要なステップは、自動的に、かつ着実に、実行されていたのだ。

どうして今はこんな状況なのか。

その謎が、どうやら解けそうなのだ。

 

結局、何が足りなかったのか。

色々な人が「目標の設定」が大事だと言うが、目標は設定できているはずだった。

目標を設定するというだけでは、何か決定的なものが不足しているのは明らかだった。

必要なのは、望ましい未来の「体感」だった。

ここ数日、Proctorの本を読み進めながら、そこに書かれてある通りに、欲しいものを手に入れている自分を想像し、かつ、すでにそれが達成されているという「まじめな妄想」をしてきた。

そして昨日、一人でやるよりも、妄想が得意な母親と言葉を交わしながらそれをやった方がいいと思いつき、「未来会議」をした。

正直、心のどこかで多少のばかばかしさは感じながらの未来会議であったが、それでも、自分の一部は完全に未来の皮算用を楽しむことができた。

すると、不思議なことに、その日は、「やらなければならないこと」が自然と「やりたくなった」のである。

それで確信した。

やらなくてはならないことは、自然とそうなるものだということ。

つまり、mustは義務を意味すると同時に、必然をも意味するのだという「論理」の正しさが証明されたのである。

 

だから、要するに、嫌なことをいやいややることはないということだ。

我慢してやっているようなことは良い結果をもたらさない。

やるべきことはたったひとつ。

ゴールを体感し続けること。

これさえできていれば、他にわざわざ何もやる必要はない。

なぜなら、必要なプロセスは「自動的に」生じるからである。

これは要するに、人は精神であるということに他ならない。

精神の仕事は、体の目的地を設定してあげることだけだということだ。

あとは体が勝手に動いてくれる。

自分がやるべきことと、自分の体がやることを混同してはならない。

自分の仕事は、想像力を駆使することだ。

精神による想像と、肉体の仕事が組み合わさって、創造となる。

生活アルゴリズム

 医学部再受験の勉強に本腰を入れて約1ヶ月だが、ここへきて、自分の致命的な弱点を発見してしまったかもしれない。それは、問題を解くための「アルゴリズム」を作ろうという意識がほとんど欠如しているということだ。アルゴリズム自体はあるのだが、それを意識化していない(言語化して把握していない)ため、体が覚えているという状態になっていて、そのためか、体調次第で機能したりしなかったりしている。つまり、体調が悪いと解け切れる問題が一気に減る。

 

 だが、この弱点に気づけたのは幸運以外の何者でもない。アルゴリズムに対する意識が欠如しているとは言っても、意識しようと思えば意識できるのだから。つまり、この弱点は心がけ次第で克服できる。

 

 ところで、私は精神疾患持ちである。その本質がいわゆる統合失調症なのか、発声障害なのか、発達障害なのか、それとも別の何かなのか、それはよくわからないが、ともかく、精神の働きに普通ではないところがある。

 

 そこで、アルゴリズムという観点から自分の精神生活を見直してみた。最近の悩みはやる気が出ないことなのだが(ちなみに悩みはその時々で変わる)、やる気が出ないとき、とりあえず行動をしてみるという方針を採用している。それはうまくいくこともあるし、うまくいかないこともあるが、うまくいかないときには眠気があるため、そのまま寝てしまうことも多い。いわば、それが私の生活アルゴリズムである。やる気があれば行動し、やる気が出なければなんでもいいから何かやってみる。それでうまくいかなかったら、寝てリセットする。こういう方針でやっている。

 

 だが、奇妙なことに気づいた。私は、体が自然と行動に移ろうとするとき、その動きに「待った」をかけているのだ。たとえば、テトリスをやろうと体が動こうとしたとき、その瞬間に抑制がかかり、「今何をすべきなのか」を考えてしまう。どこもおかしくないと思われるかもしれない。今は受験勉強中なのだから、ゲームは控えるべきだと考えても不自然ではないと。だが、そうではないのだ。私は最近、やる気が出ないときによくテトリスをするのだ。意識的に。そうすることで、勉強を開始するのに必要な頭の回転を確保できることがあるからだ。

 

 おかしな話ではないだろうか。自然と行動に移れないから意識的にテトリスをやっている人が、自然とテトリスをやりたくなったときに躊躇うというのは。明らかに、思考から行動の選択・実行への流れの中でアルゴリズムの不具合が生じている。

 

 思うに、私は生活を完全にコントロールしたいのではないだろうか。人は自分をコントロールできているときに幸せを感じるのだという話を聞いた。その種の幸せを追い求めているのではないだろうか。そして、その中で、思いついたことを行動に移すという自然の流れでさえも自分の支配下におこうとしているのではないだろうか。あたかも水の流れを用水路で整えるように、自然の流れをうまくコントロールしようとしているのではないだろうか。

 

 「自然」を「コントロール」するというのは、一見矛盾しているようにも思えるが、そういうことほど、その矛盾っぽさが解消されたときにはより高次の状態が実現されるというのは、ヘーゲル弁証法の教えるところだ。

 

 私は、とても難しいことに挑戦しているのかもしれない。これまでにはなかった「アルゴリズム」という観点を元に生活を整えていけば、ひょっとしたら、すべてが改善の方向へ進んでいくかもしれない。そんな風に思った。