人生は時間との関係

 久々に文章を書くので、まとまりのないメモ書きのようなものになってしまった。

 

 私には障害がある。ひとつは精神障害、ひとつは発声障害である。障害が二つあると言えば複雑そうだが、実際には心身のアンバランスから来るひとつの障害だと思われる。

 

 見てみると前回の記事は希望に満ち溢れていたようだが、ここのところ、睡眠時間が増え(10時間以上)、やる気がいまいち出ない日が続いている。元気に毎日を過ごせないのは、障害のせいだ。精神障害の方は(本当に!)ずいぶんと改善されており、今は体力不足という形でしか生活に影響はないのだが、発声障害の方は(これも改善はしているのだが)依然として私の人生の大部分を支配している。全く声を出すことができない時期もあったので、日常の会話ができるようになった今、障害ということに固執しなくてもいいのではないか、とよく言われるのだが、本人にしかわからない「困難」がまだあるのだ。もちろん歌い手(ボカロやニコ動とは関係なく、単にSingerという意味で)になりたいという夢があるから声に執着してしまうというところもあるのだが、日常生活の快適さという面においても、今のままでは不都合が多い。単純に、リハビリを続けていないとやがてまた声が詰まるようになるという不安がある。これまで、何度もそうなってきたからだ。リハビリのやり方はともかく、何らかのリハビリを続けていないと、また声が出にくくなってしまうのは経験上ほぼ間違いないのである。

 

 一生リハビリでもいいと思っている。だが、一生このままでは嫌だという気持ちも大きい。リハビリを続けることに苦はないが、改善が見られないのは苦痛である。そんなわけで、先ほどは少しネガティブな気持ちになっていた。ここ10日間ほどのリハビリで発声はずいぶん改善・進歩したのだが、同時に疲労も溜まって、朝からなんだかやり切れない気持ちになっていた。

 

 こういうとき、「なぜ」ネガティブなのかを考え出すと、ドツボにハマるものだ。そこで、単純に、意志の力で、自己を奮い立たせてみた。それでブログに向かっている。最近、身体に意識が偏りすぎていたので、ここらで言葉の力を回復させようというわけだ。

 

 不思議なもので、このように自分の言葉を紡いでいくと、自分の中の何かが整って、発声が整ったりするのである。人体を「言葉を話す装置」と考えれば合点がいくのだが、本当にそうなのかもしれない。ふだんの声を出すリハビリがボトム・アップだとすれば、ブログを書く(声を出さない)リハビリはトップ・ダウンだ。ちょうど、前回の記事で書いた「未来を創り出す」ことがトップ・ダウンで、前々回の記事で書いた「生活アルゴリズム」がボトム・アップにあたるように。

 

 時間の流れには2つの方向があると言う。過去から未来、そして未来から過去。この2つの方向性のバランスが狂うと、生き方を見失う。人生とは、詰まるところ時間との関係だからだ。

 

 ミクロ・マクロという言葉でも言い換えられると思う。生活を細分化して個々の要素に対する戦略を立てていくような意識がミクロで、未来における「大いなる目的」を精神において設置していくような意識がマクロだ。意外と、あらゆる精神障害の発端はこの時間との関わり方を間違えることからくるものなのかもしれない。もっと言うと、中道というのは、結局、ミクロやマクロの極端に振れることなく、バランスをとれということなのかもしれない。生き方が時間との関係性である限り、逆に、それ以外の答えがあるとも思えない。

 

 生き方は少しずつ、改善してきている。当面の目標は、元気になること、そして来年の医学部受験で合格することだ。「地道さ」というのも、障害を克服する上ではひとつのキーワードになる。障害は障害だ。簡単に克服できるようなものではない。時間が必要なのだ。そのことを忘れて、功を焦ると、かえって後退することになりかねない。肝に銘じておきたいところ。