生活アルゴリズム

 医学部再受験の勉強に本腰を入れて約1ヶ月だが、ここへきて、自分の致命的な弱点を発見してしまったかもしれない。それは、問題を解くための「アルゴリズム」を作ろうという意識がほとんど欠如しているということだ。アルゴリズム自体はあるのだが、それを意識化していない(言語化して把握していない)ため、体が覚えているという状態になっていて、そのためか、体調次第で機能したりしなかったりしている。つまり、体調が悪いと解け切れる問題が一気に減る。

 

 だが、この弱点に気づけたのは幸運以外の何者でもない。アルゴリズムに対する意識が欠如しているとは言っても、意識しようと思えば意識できるのだから。つまり、この弱点は心がけ次第で克服できる。

 

 ところで、私は精神疾患持ちである。その本質がいわゆる統合失調症なのか、発声障害なのか、発達障害なのか、それとも別の何かなのか、それはよくわからないが、ともかく、精神の働きに普通ではないところがある。

 

 そこで、アルゴリズムという観点から自分の精神生活を見直してみた。最近の悩みはやる気が出ないことなのだが(ちなみに悩みはその時々で変わる)、やる気が出ないとき、とりあえず行動をしてみるという方針を採用している。それはうまくいくこともあるし、うまくいかないこともあるが、うまくいかないときには眠気があるため、そのまま寝てしまうことも多い。いわば、それが私の生活アルゴリズムである。やる気があれば行動し、やる気が出なければなんでもいいから何かやってみる。それでうまくいかなかったら、寝てリセットする。こういう方針でやっている。

 

 だが、奇妙なことに気づいた。私は、体が自然と行動に移ろうとするとき、その動きに「待った」をかけているのだ。たとえば、テトリスをやろうと体が動こうとしたとき、その瞬間に抑制がかかり、「今何をすべきなのか」を考えてしまう。どこもおかしくないと思われるかもしれない。今は受験勉強中なのだから、ゲームは控えるべきだと考えても不自然ではないと。だが、そうではないのだ。私は最近、やる気が出ないときによくテトリスをするのだ。意識的に。そうすることで、勉強を開始するのに必要な頭の回転を確保できることがあるからだ。

 

 おかしな話ではないだろうか。自然と行動に移れないから意識的にテトリスをやっている人が、自然とテトリスをやりたくなったときに躊躇うというのは。明らかに、思考から行動の選択・実行への流れの中でアルゴリズムの不具合が生じている。

 

 思うに、私は生活を完全にコントロールしたいのではないだろうか。人は自分をコントロールできているときに幸せを感じるのだという話を聞いた。その種の幸せを追い求めているのではないだろうか。そして、その中で、思いついたことを行動に移すという自然の流れでさえも自分の支配下におこうとしているのではないだろうか。あたかも水の流れを用水路で整えるように、自然の流れをうまくコントロールしようとしているのではないだろうか。

 

 「自然」を「コントロール」するというのは、一見矛盾しているようにも思えるが、そういうことほど、その矛盾っぽさが解消されたときにはより高次の状態が実現されるというのは、ヘーゲル弁証法の教えるところだ。

 

 私は、とても難しいことに挑戦しているのかもしれない。これまでにはなかった「アルゴリズム」という観点を元に生活を整えていけば、ひょっとしたら、すべてが改善の方向へ進んでいくかもしれない。そんな風に思った。